弘誓寺 沿革 ―能登のお寺の歴史―

弘誓寺は、現在の石川県鳳至郡穴水町にあった寺院で、
聖徳寺を開いた願念上人が、奥州へ向かう以前に住職を務めていた寺です。
ここでは、聖徳寺成立以前のルーツとして、
弘誓寺の沿革を史料にもとづいて紹介します。

【開基・真宗への改宗】

弘誓寺は、鳳至郡穴水町大町にあり。
開基は堀河左大臣忠親の二男定光にして、
法名を願了と称し、坊号は勝玄坊願了大法師と云う。

天台宗の僧にして、
穴水南北十六坊の座主として
鳳至山弘誓寺に住す。

応安5年(1372)
本願寺第5代綽如上人の
越中井波、瑞泉寺に留錫するや、
願了之に帰依して改宗す。


【嘉永年間の火災と出来事】

嘉永5年(1852)4月26日
七つ半某所を火元にて
当時(圓昇)類焼炭塵となる。

嘉永6年(1853)正月13日
御太守様 能州海岸御巡化につき
御元祖大納言様御検知の節、
御本陣に作られた縁で
拙寺に御小休所となる。


【21代 不退院釈實成大禅師】

21代 不退院釈實成大禅師

嘉永7年(1854)11月29日
八つ時終焉。67歳入寂。

17歳にて住職、
庫裏、土蔵再建、
本堂修復。

慶応2年(1866)5月25日
上刻隣家某所より出火類焼
(現在の大町字本町)
本堂・庫裏・座敷・土蔵・全焼なり。

但し当時住職實住は、
十有七年不在で
東本願寺へ出勤。


【實住の事績と再建】

實住は、本山の輪番御用の奉書により
安政六年(1859)大学寮受命、総括す。

全国寮司一般より選擇される
出役甚希有の役職なり。
これに勤仕して帰院す。

然るところ再度の類焼にて
前度の如きは
庫裏更に本堂殿・座敷・新築土蔵
修復不容易の苦労なり。

故に後度の節は
現今の地所へ同年移転。
直ちに庫裏新築・土蔵修復、
本堂は明治9年(1876)再建す。

明治19年(1889)3月29日
御門跡北陸道御迎化につき
随行を申し付けらる。

同年、
会計部出勤命ぜられる。

明治23年(1890)
条賀学場副取締を命ぜらる。

明治34年(1901)11月25日
財務整理将大励田係受命。


【23代 龍華院釈實住】

23代 龍華院釈實住

明治36年(1903年)4月18日
60歳入寂。


【實忠院釈左皎の戦没】

實忠院釈左皎は、
昭和19年(1944)8月7日、
ビルマにて戦死す。38歳なり。
勲七等に叙らる。

門前町字安代原の
得蔵寺旧姓
(石田三成ゆかりの寺)
から入寺する。


【25代 釈實映】

25代 釈實映

昭和20年(1945)
得度受け僧籍簿に登載されりや
9歳より父の戦死、
祖父病弱にして
役僧と法務をおおせつかる。

父は實映7歳の時戦死、
祖父は13歳の時入寂。


【弘誓寺の分流と青森・黒石】

尚600年前
弘誓寺の三兄弟が青森に行き、
弘誓寺の二男釈休石が、
黒石に移住分家す。

正保四年(1647)には
正式に本山東本願寺から
阿弥陀如来の木仏御本尊と
宗祖親鸞聖人の御影などが与えられ、
山号・寺号の公称を
許されたと云う。

他の二兄弟の子孫も
つれづれに穴水に来ている。

青森県黒石市京町字寺町
真宗大谷派 感随寺
第16代穴水顕一


【600年後の再訪】

平成21年(2009)5月6日
穴水孝道住職をはじめ
門徒37人が
600年の時を経て
遠路はるばる
祖先の寺へ参詣に来寺される。


【願念上人と聖徳寺の成立】

およそ450年前には
弘誓寺第10代住職 釈願念は、
東本願寺第12代教如上人の高弟として
弘誓寺の門徒30人余りを連れて
東北におもむく途中、
寺泊にとどまり
文禄2年(1593)9月に
一宇を建立する。

江戸時代中期、
信仰教義問題から
東本願寺を離れて
佛光寺の末寺となり
今日に至る
(現在の聖徳寺)


【近現代の交流と法要】

昭和48年(1973)4月
弘誓寺堀河實映住職が、
開創400年記念法要・
親鸞聖人700回大遠忌法要に
佛光寺派のご門主・御裏さまと共に
招待される。

昭和61年(1986)8月
副住職の窪澤真一と
若き僧7人と
平成2年(1990)6月8日
寺泊の住職・坊守・門徒32人が
祖先の寺へ参詣に来寺される。


【系譜】

新潟県寺泊
真宗佛光寺派 東山 聖徳寺

弘誓寺初代勝玄坊釈願了より
代々世襲26代
願念より16代に及ぶ

※本沿革は、史料原文をもとに掲載しています。