歴史

今から430年ほど前、東本願寺の教如上人の弟子に僧願念がおりました。願念は石川県穴水町の弘誓寺の住職でした。弘誓寺とは、堀川右大臣入道の二男定光が出家得度し、能登国穴水に弘誓寺として創建したお寺です。願念は、弘誓寺の10代住職に当たります。願念は東本願寺教如上人の高弟として、石山合戦に参加しその功績をみとめられ、教如上人より東北開教の命をうけ弘誓寺を弟にゆずり、遠く奥州を目指して御門徒30数名と共に旅立ち、海路にて寺泊の浜へ上陸しました。

そのころの寺泊は、日蓮上人などの高僧方が滞在されたこともあって、活気ある各宗の動きがございました。東北に赴く途中でしたが寺泊に上陸し、願念が宿をとった中村兵衛のやかたにて三昼夜ほどの布教をしました。兵衛はじめ信者多数の引きとめにより寺泊にとどまるようすすめられた願念は、文禄二年(1593)九月、文字通りの「寺どまり」を決め、ご本尊、聖徳太子のご絵像を安置する聞法の道場として一宇を建立したと伝えられています。聖徳太子の絵像とともに教如上人からたまわった寺号「聖徳寺」を名のり、京都東山をなつかしんで「東山」と山号をとなえました。

現在は、江戸時代の信仰教義問題から東本願寺を離れて佛光寺派の末寺となりました。弘誓寺初代勝玄より数えれば、聖徳寺現住職で26代目となります。聖徳寺より数えれば16代、代々世襲にて法灯を受け継いでまいりました。聖徳寺は、江戸時代の中頃と明治維新の大火にて二回類焼しております。一度目火災で赤坂山(現在の赤坂城跡)にあったお寺を現在地へと遷座しました。ご本尊、親鸞聖人坐像、聖徳太子のご絵像は二度の火災の被害を免れ、今日に至ります。門信徒の信仰と懸命な運び出しのお陰です。「『寺泊郷土史』青柳清作」参照

歴代住職

9代円雅は歌人で京都に赴き宮中に出入りし、本山佛光寺の講師をつとめました。当時の講師と言えば御門主を教導する役職でした。父親の実家である東京西徳寺を頻繁に行き来し、最期は東京西徳寺にて没したと伝わっております。聖徳寺庭園も9代円雅の頃に京都の庭師によってつくられ、庭園のほかに数々の文化財を寺にもたらしました。良寛とも歌を通じて親交があったといいます。もう一人真宗史にのこる学匠住職として11代住職円勧が助講師となって、真宗全書渋谷学生略伝の中に名前を残しております。

13代住職窪沢円一は、若くして大志がありひそかに武技を練っていました。勤王攘夷の思想に魅せられて、平田篤胤を師事した円一は、姓を野崎と改め、長州藩桂太郎の隊に属し、勤王僧として活躍しました。京都から秋田にかけて転戦を繰り返し、8月14日秋田角間川の戦にて数人をうち銃丸にあたり戦死を遂げました。その後、郷友の柳下安兵衛が秋田正洞院に円一を葬りました。享年21歳。明治11年の北陸御巡幸の際、岩倉具視一行が寺泊に立ち寄りその武勲によって明治天皇から香下料をたまわりました。後に寺泊では明治三筆の一人、日下部東作によって碑が彫られました。その碑で円一の人となりを知ることができます。円一は寺泊へ戻ることなく現在、秋田県の平田篤胤のお墓のうしろに墓石がありそこに眠っております。